4日目(手術当日〜翌日)

  • 手術は前日夕刻から続き、日を越した深夜に終了。計9時間。
  • この日一日は、手術そのものの痛みより、付随的な“後遺症”(=全身麻酔の副作用)に苦しむことになる。
  • この日について、前半の記憶はあまりない。あるのはおもに後半のもの。ということで、以下では、家族や看護師さんのお話(後日談)も入れ込みながら書いていきます。

  • 午前2時、手術終了
    • 私は麻酔が覚めないうちに、6F手術階から4F病室階に“搬送”。
    • まずは自分の個室ではなく、(ナースステーション直通の)リカバリー室へ。手術直後の数時間、集中的にケアしてもらうことになる。
  • それまでの間、当然のことながら家族は緊張と疲れのピークの中で時間を過ごしていた。
    • 昨日私を手術室に見送った後の午後5時ごろからは、また個室に戻り、4人でTV(阪神戦)を見たり、話をしたり、ご飯を食べたり、仮眠をとったりしていた。
    • 手術時間については、前日に「4〜5時間」と聞いてはいたが、入院前には「7時間」と言われたこともあったので、多少長引くことは覚悟していた。しかし、さすがに午前0時を回ったころ、父・母・妹はハラハラ・ピリピリし出し、「きっとものすごくヤバイことになっているにちがいない・・・」と思っていた。唯一Y彦おじが「きっとM先生は丁寧にやってくれているんだ」と言って皆を励ました。しかし、そのY彦おじも風邪の熱や悪寒で苦しそうにしており、アメばかり舐めていた。
    • そのような中、看護師さんも何度か声かけ・様子見に来てくれていた。
  • 日をまたいで、ようやく、手術を終えたM先生から家族呼び出し。私の姿を見るより先に結果報告が行なわれる。

    • そのときのM先生のお顔を見た瞬間、4人は全員、「手術は成功だった」と思ったらしい。それぐらい、M先生が達成感にあふれた表情をなさっていたのだそう(4人が声を揃えて言った)。
    • 報告の内容もだいたいその通り。ただし、手術の出来とは別に、私の転移状況は開けて見る前より悪かったのであった。
      • 【報告内容】
        • 手術自体は「成功」。肉眼で見えるかぎりの癌は全部取った。
        • 開けて初めて、気管・声帯周辺部への浸潤が見つかった。しかし、これもとにかく全部取った。それに応じて気管切開も行なった。
        • 声帯周辺に関しては『いったん切って、あとで縫いつなぐ』という方法もある。しかし、その方法は取らず、『細かく丁寧に削ぎ取る』方式にした。その方が、後で少しでも『声』に良い。(おそらく、それで時間が余計にかかった。)
        • ただし、将来的に「高い声」は出にくい可能性が高い。普通の話す声には全く問題なし。
        • ただし、しばらくは声自体が出せない。声帯に麻痺がないことが確認され、切開孔も縫合できれば、元通り話せるようになる。
    • ちなみに、母がこのとき、「この子は教師になりたいんですけど大丈夫でしょうか!? 授業とかできるでしょうか!?」と聞いたらしい。M先生もそんなこと言われても困るだろうに(苦笑*1)。しかし、「大丈夫です。」としっかり答えてくれたのだそうな。
  • 2時過ぎ(だったらしい)、私と家族の対面。
    • 目覚めると、手術室ではないクリーム色の天井と、酸素マスクのへりと管が見え、そのあいだに父・母・妹・Y彦おじが立っていた。全員満面の笑顔だった。
      • 父:「よう頑張ったな!
      • 母:「M先生丁寧にやってくれはったよ! 声も大丈夫やって!今は出えへんけど、あとで絶対出るって!
      • Y彦:「大成功!大成功!(両手で大きな輪を作りながら)」
    • 意識は朦朧としていたが、不思議とはっきり覚えている。
    • 母の言葉を受けて、私は「じゃああと何日でしゃべれるようになるの?」と聞こうとした。しかし、マスクが付いているうえ、感覚も完全には戻っていなかったので、言葉にならなかった。3人はひたすら「よかった、よかった」と言い続けており、私が聞こうとしていることも理解していなかった。唯一妹が、指で「」というサインをしているのが見えた。私は「ああ、日経ったらしゃべれるんや・・・(T▽T)」と思い、安堵する。しかし後で、そのサインらしきものは、とっさにした全く無意味なポーズで、日数とは何の関係もなかったことが判明。
  • この後、家族らはようやく自宅に戻ることとなる。Y彦は姫路、残る3人は大阪へ。
  • 直後、M先生も顔を見に来てくれる。
  • 私自身は、とにかく麻酔から目覚め、皆とも会え、緊張が一気に解消される。快い気分でそのまま眠りに落ちる。
  • その後、何時かも分からないが、何度も目覚める。目覚める原因は、以下のいずれかによるもの。
    • 1)嘔吐が来る
    • 2)肩と背中が異常に痛い
    • 3)たんや唾液がつまる
    • まず、最も苦しんだのが1)。
      • 「気分が悪い」「吐き気がする」というような一種『理性的』なものではなく、胃が痙攣してくるのがはっきりと分かる『動物的』なもの。「胃が押し出してくる」というような感じ。(後日退院してから、『飼い猫が毛を吐き出すときの動作』を見て、全く同じだと思った。)
      • のどの奥からグエッ!グエッ!グエッ!という音(※あくまでも声ではない)が聞こえだし、舌が飛び出てきて、口が開けていられなくなる。
      • 眠っている途中でこれが来ると、その音で目覚め、手元に添えてもらっているナースコールを押す(指は元気なのでありがたい(笑))。すると、すぐに看護師さんが飛んできて、嘔吐用のトレーをあてがってくれる。
      • 余談に渡るようだが、そもそもこのブログのタイトルを『ますいますみ(増井真澄)』としたのも、まさにこの「麻酔」の副作用を強く恐れてのものだった。私は幼い頃、やたら吐きやすい体質で、ちょっと風邪を引いては吐き、水泳をしては吐き、ケーキを食べては吐き、寿司(特にいくら)を食べては吐いていた。そのときの息苦しさや心細さはけっこう今でも覚えていて、泣きながらキリスト様に祈ったりして(近くの幼稚園がミッション系だったせい)、それでも吐いてヘロヘロになっていたものだった(その後ミッション系には魅力を感じなくなったのもそのせいか)。これでむしろ慣れてくれればよかったのだが、反動で完全に嘔吐恐怖症になってしまった。小学校に上がったぐらいからは、とにかく吐くこと自体を押し殺して生活した。出そうになっても毎回口を開けず飲み込んだ。その甲斐あってその後約20年一度も嘔吐をしなかったのであった(たまに、逆に気持ち悪いんじゃないかとも言われるのだが)。
      • そんな私がとうとう久々の嘔吐を体験することになったわけなのだが、これが意外と平気だった。
      • まず、精神面が完全に安定していた。本やインターネットで手術や麻酔について調べたり体験談を読んだりすることを通して、いつの間にか「当然来るべきもの」という覚悟が固まっていた。特に「一定時間が過ぎれば必ず解決するもの」という点がはっきりと確認できていた。幼い頃あれほど恐怖していたのには、その苦しみが「永遠に続く」ように感じられていたせいもあったかもしれない(大人から「吐いたらスッキリするよ」などと慰められても、泣き狂っている場合にはほとんど効果がないだろう)。ということで、『漠然とした恐怖感』には苛まれずにすんだのであった。
      • とはいえ、やはり胃から異常な音が聞こえてくるのはさすがに不気味で焦った。しかし、そこは看護師さんたちの温かいケアでやり過ごすことができた。ナースコールを押すたび、猛獣の慟哭のような音を発して痙攣している私に、全く動じずイヤな顔もせず、しっかり抱きかかえて介助し、トレーに向かわせてくれた。なお、実は痙攣ばかりでほとんど何も出ないのである(絶食してるから何もないし)。ただ、痙攣に身を任せているとそのうち収まってくる。そして、また寝る。音で目覚め、ナースコール。痙攣だけで出ず。寝る。また音・・・。を、何度となく繰り返すのであった。

      • このときは、本当に看護師さんのありがたさとすごさを知り、やっぱりプロだ(>▽<)と思った。来てくれたどの看護師さんも優しく介助してくれたのだが(このときは意識が完全に戻っているのでしっかり覚えている)、印象的だったのはSさん。がっちりと抱きかかえながら神戸弁で励ましてくれたのが忘れられない。
        • Sさん:「まだ麻酔がきーとーからねー。時間経ったら治るからねー
        • 私:「グエッ・・・グエッ・・・(声が出ないわりに音ばかりでるが、精神的には嬉しい)」
    • 次に辛かったのは2)。上半身のこりと熱。
      • この時点では、術部2箇所の自覚的な痛みはない。
      • ただ、同じ姿勢で寝続けていることの負担がそろそろ限界なのであった。寝返りたいが、首を動かしてはならず(そもそも自力では力が入らずできない。マスクや管もいっぱい付いているし動けない)、首と肩がつんつんに痛い。
      • これも、察した看護師さんたちに寝返りを介助していただいたり、肩に湿布をはっていただいたりして、緩和。

    • 最後に3)。たん、唾液、せきなど。
      • この時点では、「飲み込み」の動作が禁止だった(これもそもそもまだ自力ではできなかった)。
      • まず、たん。ガラガラorヒュルヒュルと詰まってくるたび、苦しくて目が覚め、ナースコール。看護師さんたちは、専用の『ストローのような管の付いた吸引機』【→】で、私ののどのアナから直接たんを吸い出してくれる。(ちょうどニュースで同じことをしている小さな女の子のことを見たことがあったが、それと全く同じだった。)
      • つばは、ティッシュで吸う。これぐらいは何とか自力で出来るのだが、つばがやたら出てくるな・・・と思ったらそのままグエッ!の音が続いて痙攣が始まることが多かったので、要注意。
    • なお、このリカバリー室には、同じころ手術を終えた患者が何人か並んで寝かされている。ベッドごとにカーテンが引かれているのでそれぞれの様子は見えないが気配や声は察知できる。
      • 私の方にもはっきりと聞こえてきたのは、中年の女性患者と男性患者の、いずれも尿道カテーテルに関する訴え。
        • 女性患者:「(ナースコール)」
        • 看護師さん:「どうされました?」
        • 女:「あの・・・気持ち悪いんです・・・取ってもらえませんか・・・?」
        • 看:「あ、ちょっと今取れないんですよー。もうちょっと頑張ってくださいねー」
        • 女:「あの・・・痛いんです・・・おしっこ出そうで出ない感じで(半泣)」
        • 看:「うん、おしっこしっかり出てますよー、大丈夫ですよー」
        • 女:「・・・(引き下がる)」
        • 男性患者も同様。ナースコールを押しては同じ問答を繰り返す。
      • 二人とも、いったん説得されて一応寝付くも、目が覚めるとまた同じやりとりを繰り返している。よほど気になるのだろう。
      • もちろん、私もカテーテルは挿入されていたし、感覚はあった。しかし、ほとんど気にならなかった。別に尿道が丈夫なのではない(はず)。これもただ麻酔副作用と同様で、「カテーテルを通している間は、ずっと尿意があるような感じで、痛くて気持ち悪いのが当たり前」ということを知識として確認し覚悟していたので、実際知っているとおりのことが起こっていることが自覚でき(逆にいえば、例外的な状況にあるわけはないということでむしろ安心でき)、「こんなもんだろう」と受け入れることができたためであった。正直言うと、このお二人に対しては、「大人のくせに〜(^皿^) とにかく無事なだけでもありがたいんだから文句言うなよ〜」と思わないではなかった(秘)。
      • まあ、私の場合は、上半身の問題で手一杯で下半身のことは気にする余裕がなかった、というのも本音。いま思えば、私の痙攣音こそ、このお二人を含む同室の方々に多大なご迷惑をおかけしただろう。むしろ、この場を借りて、すみませんでした・・・(^0^)>”
  • 昼ごろ(←正確な時間は分からないまま)、リカバリー室退出

    • 麻酔薬の副作用も切れてきたと判断されたころ。(ただし、普通より手術が長引いた分、リカバリー時間も長めだったらしい)
      • 1)カテーテルを取ってもらう。
      • 2)身体を拭いてもらう。
      • 3)着替える(紙パンツ→普通パンツ、術衣→パジャマ)。
    • そのまま、介助してもらって立ち上がって、看護師さんに手を引いてもらって、同じフロアの自室に向かう。ぎこちないが何とか歩ける。
    • その道中で、ちょうど来院した母に遭遇。
      • 母:「うわっ! 歩けるんや・・・(汗)」
      • 私:「・・・・・・(無声)」
    • 私の部屋はリカバリー室からはすぐの場所だったので、歩いたのはほんの20mほどだったと思う。その時点では一応、意識はやや朦朧としているが、嘔吐もおさまり、落ち着いていた。
    • 部屋に入り、そろ〜りとベッドに腰掛けたとたん、・・・グエッ!・・・グエッ!・・・グエッと突如最大級のものが来る。急いで目の前のゴミ箱をかかえ、クワーッと吐く。続けざまにもう一波。今度は看護師さんがすかさずトレーを当ててくれる。さらにクワーッ
    • まともに吐けたのは、昨夜からこれが初めてだった。一部始終を見ていた母によると、部屋に入った時点では真っ青だった顔が、吐いたとたん赤味が差してきたとのこと。自分的にも、恐怖どころか超スッキリしたのであった。(^3^)=3 フゥ・・・
    • ちなみに、私の口から出たのは、濃厚ブルーの液体。このタイミングで父来る。
      • 父:「おっ、何か消毒したんか?」
      • 私:「・・・・・・(ジェスチャー:『ううん、これ、ゲロ』)」
      • 母:「ピッコロかと思たわ」
      • 私:「(筆談:『というよりブルーレットみたいじゃない?』)」
    • そのまま、父・母と情報交換。筆談デビュー
      • 筆談第一声は、「手術、結局何時間かかったん?」。気管切開のこと、入院日数が延びたことなども、この時点で初めて聞く。


      • ボードは看護師さんが持ってきてくれたもの。はじめ、『この図を参考にこのような表情を使い分ける』のだと思って失笑したが、単に指差せばいいだけだった。
      • 父が、「どうせそのうちしゃべれるようにはなるけど、手話勉強せえや。明日本買って来るわ」と言う。母はある意味『不吉』に思ったらしく、「そんな、いらんやんか!」と反論したが、私が欲しがったので、結局買ってきてもらうことに。父いわく:「お前は将来先生(教師)になりたいねんから、こういうことは覚えといた方がええ。この機会にちょっとやっとけ」。
    • その後のことは、正確には覚えていないが、寝たり起きたりをひたすら繰り返して、次の朝までの時間を過ごす。
    • 首周りには血を捨てるためのドレーン、腕には点滴。これらはもう数日付けっぱなし。
    • 自力でトイレ(尿)にトライ。まだ少し感覚がヘンだが、問題はない。
    • つば飲み込みOK出る。たんはまだ吸引が必要(そのつどナースコール)。
    • 鏡で傷の具合も見る。上部は黒い糸が飛び出ていてかなりグロテスク。下部は思ったよりは地味な?仕上がり。


    • 飲み物は解禁になったが、ほとんど受け付けなかった。飲み込みが痛い・・・。
    • 看護師さんの見回りやM先生の往診は何となく覚えている。 

*1:といいながら、後から聞いたときは目が潤んだ(恥)。